悪女 三大悪女

三大悪女in中国

 呂后はもともと農民の娘だった。 やがて劉邦が死ぬと、呂后は行動を起こした。
   彼女はまず、劉邦が寵愛していた妾である戚夫人の子を殺害した。 しかし、その支配も彼女が死ぬと瓦解したという。

   唐の太宗皇帝が死ぬと、彼の后である武昭は仏門に入った。)に入れた。
 彼女は皇帝の寵愛を受け、子も生まれたが、皇帝の正妻には子が無かった。
「子供が后に殺された!」

 彼女の計画はまだ終わらない。「后が皇帝を呪い殺そうとしている!」

 ついに正妻は后の位を奪われて投獄されてしまった。その後、武昭が正妻の地位についた。名は「武后」。
 彼はつい

 武后は

皇帝の正妻が「東太后」と呼ばれたので、彼女は「西太后」という名で呼ばれた。
 だがその後、同治帝は20歳にもなる前に死んでしまった。これは西太后の策略である。
 どうやら、皇帝が自分が推した后ではなく東太后が推した后を選んだのが気に障ったためらしい。第一、皇帝は居丈高な西太后よりも、穏健な東太后になついていた。
 皇帝の后も3ヶ月後にあっけなく死んでしまった。 ある時、東太后が病の床についた。 西太后の行動に感動した東太后は、

西太后による毒殺である。

中国史には、「悪女」と呼ばれる人物が3人登場する。一人は漢の太祖劉邦の妻である呂后。そして欧米列強から「ドラゴンレディー」と恐れられた清の西太后である。

 呂后はもともと農民の娘だった。本名は呂稚。彼の父は劉邦を見て、「ただ者ではない」と見抜いたが、当時の彼は酒色に溺れるただの小役人。
 彼の家はひどい貧乏であり、呂稚は嫁いだその日から働かねばならぬほどだったという。
   だが、数年後に秦の始皇帝が死ぬと、劉邦は項羽らとともに秦を滅亡させ、後に項羽と対立すると項羽をも打ち破って新国家を樹立した。 劉邦は、皇帝に収まると生来の女好きが復活したのか、次々と女に手を出しては呂后の嫉妬を買った。
 やがて劉邦が死ぬと、呂后は行動を起こした。
   凄惨なる復讐劇の始まりである。

 彼女はまず、劉邦が寵愛していた妾である戚夫人の子を殺害した。その後戚夫人を囚人に陵辱させ、毒を飲ませて声を奪い、耳を潰して聴覚を奪い、目をえぐって視覚を奪った。

 そして「仕上げ」とばかりに四肢を切り落としたのである!

 呂后はダルマ状態になった戚婦人に「人テイ(テイというのは前足が短い豚の一種。 数日後に戚夫人は死んでしまった。

 その後彼女は国内の要職に自分の親族を就け、国政の中枢を握った。
 しかし、その支配も彼女が死ぬと瓦解したという。

   唐の太宗皇帝が死ぬと、彼の后である武昭は仏門に入った。しかし太宗の子・高宗皇帝は彼女のことを気に入っており、わざわざ仏門から呼び戻して後宮(いわゆるハーレム。)に入れた。
 彼女は皇帝の寵愛を受け、子も生まれたが、皇帝の正妻には子が無かった。
 野心家だった彼女は、子を利用してのし上がることを決意した。
   ある時、武昭の部屋に正妻が訪れ、武昭の子をあやして帰っていった。
 その後武昭は部屋に入り、血を分けた我が子を絞め殺し、

「子供が后に殺された!」

 彼女の計画はまだ終わらない。皇帝が病気になって床に伏せると

「后が皇帝を呪い殺そうとしている!」

と言い、ご丁寧にも正妻の寝台の下に、皇帝の名前が書かれ、釘を胸に刺した人形を入れておいた。

 ついに正妻は后の位を奪われて投獄されてしまった。その後、武昭が正妻の地位についた。名は「武后」。
 哀れに思った皇帝が前后の様子を見に牢へ行くと「どうか命だけは…」と命乞いをしてくる。
 彼はつい

と約束してしまったが、武后はそれを知るや怒り狂い、前后を鞭打ちの刑に処したあげく、四肢を切り落として樽一杯の酒に漬けた。数日後、彼女は地獄の苦しみを味わいながら悶死した。

 武后は

 その後皇帝が死ぬと、子を新皇帝に立てたもののすぐに廃し、ついに自分が皇帝の位に収まった。
 彼女は同族の人間を重用し、唐の国号を「周」と改めたりもした。
 以上が則天武后が悪女と呼ばれる所以であるが、近年彼女の業績を見直そうという動きが中国では盛んであり、彼女の名称も蔑称である「則天武后」から「武則天」に変更すべきだとの声もある。
 ちなみに、水戸光圀の「圀」の字は彼女がつくった文字で、「則天文字」と呼ばれる物である。

   西太后はエホナラ氏という一族の出で、本名を蘭児といった。
皇帝の正妻が「東太后」と呼ばれたので、彼女は「西太后」という名で呼ばれた。
 彼女は野心満々の女であり、次第に清の国政の中枢を握るようになる。

   清のカン豊帝が崩御すると、東太后とともにまだ5歳の新皇帝・同治帝を補佐するため「垂簾政治」を行った。
 だがその後、同治帝は20歳にもなる前に死んでしまった。これは西太后の策略である。
 どうやら、皇帝が自分が推した后ではなく東太后が推した后を選んだのが気に障ったためらしい。第一、皇帝は居丈高な西太后よりも、穏健な東太后になついていた。
 皇帝の后も3ヶ月後にあっけなく死んでしまった。「服毒自殺」と言われているが、西太后に謀殺された可能性が高いという。
   同治帝の死後、西太后の強引な勧めによって、彼女の甥にあたる4歳の光諸帝が即位。 だが、権力基盤を確立した西太后にとって東太后はもはや邪魔者でしかない。 ある時、東太后が病の床についた。 西太后の行動に感動した東太后は、

「カン豊帝様の遺言には、西太后は危険な女だからいざと言う時には殺してしまえと書かれていましたが、もうこんな物はいりませんね」

 西太后はそれを知るや怒り狂い、東太后暗殺のための計画を練り始めた。

 東太后の病気が全快した時、西太后は快気祝いの宴会を開いた。
西太后による毒殺である。

 その後も彼女は権謀術数を駆使して清朝を支配し続けるが、後に満州国初代皇帝となる宣統帝溥儀を擁立した直後、74年の生涯を終えた。

 そして1912年、中華民国が成立し、ヌルハチに始まる300年の清の歴史は幕を閉じた。